一章 

 目覚めたばかりの脳は今の状況をまったく把握できていなかった。
それはただ、視界映る情景をありのままに認識するだけ……。
 いつもと変わらない教室。
 いつもと変わらない前の席のあいつ。
 いつもと変わらない几帳面に端からびっしりと文字で埋められた黒板。
 いつもと変わらない教師の引きつった笑み。
 毎回思うことではあったが、どうやったらあんなに正確に
――機械が書いたような規則性を持って字が書けるのだろう?少し書いた
人物の性格を疑いたい。なぜなら。視界を少し下に向ければ、
それとは正反対の文字がノートの上を――それこそミミズが這った様に書かれているから。
 黒板と手元のノートを何度も交互に見比べ唸る。
 「わからん」
 そう言った瞬間視界の端で何かが切れる音がした。
それは、しいて言うなら堪忍袋の緒の切れたような音だった……。
 

 最初に訪れたのは何かが風を切る音だった。
 その音に反応し、即座に体にスイッチが入り血液が体中に行き渡る。
これにより意識は覚醒し、間髪入れずに頭上に向かって両手を伸ばす。
 いつもならそれで終わりだった。
 後はただ掌を合わせれば自然と凶器はその中に納まり、
不敵に笑えば奴は悔しがりとぼとぼと教卓へ帰っていく。
 しかし、掌中に収まったのは空気だけ。本来あるべき感触はそこにはなかった。
 「鷺沼 耀司、討ち取ったりっ!」
 高らかな宣言と共に頭頂部に鈍く痺れるような痛みが現れる。
それはもう久しく味わっていなかった――出来ることなら二度と味わいたくなかった痛みであった。
 「なにすんだよ静ネエ!」
 抗議の声は再びの災難を――
 「させるか!」
 呼ぶ前に回避した。
 凶器――分厚い国語辞典の攻撃を避け教室の床を転がった体は、
すぐさま起き上がり奴――静ネエこと現国教師 花浦 静瑠に向かい構えを取る。
 硬直。教室中がひとつの、物言わぬ壁画と化しその攻防を見守る。
 二人は互いに間合いを計りながら機会を伺う――教室の後ろの狭い空間で。
 先に動いたのは静瑠の方だった。
 国語辞典という武器を左手に持つ静瑠はその優位を過信し先手を打つ。それに反応し耀司も動く。
 二人は一息で相手に肉薄し攻防を開始する。初手はやはり先に動いた静瑠だった。
 静瑠は武器である左手に持つ国語辞典を耀司の額へ最短距離で突きを放つ。
 放たれた突きは申し分ないほど正確で、絶好のタイミング――耀司の片足が着地し、
予備動作に入った瞬間に耀司へと到達した。
 しかしそれは額に当たること無く耀司の右横を通り過ぎる。
 伸びきった左腕は耀司の右手に掴まれ静瑠は自分の意思とは無関係に接近を余儀なくされる。
耀司はそのまま静瑠に当身を見舞い、その左手から辞典を奪い距離を置く。
 「オレの勝ち」
 耀司は静かにそう宣言する。そんな耀司を静瑠は駄々っ子のような表情で睨み付けていた。
 そこで、試合終了を告げるゴング――チャイムが鳴り響く。
 物言わぬ壁画と化していたクラス一同はその音を期に動き出す、
それはデスマッチを観戦し終わった観客の様に見えた。
 「花浦先生は次の授業の準備をされた方がよろしいのでは?」
 耀司は勝ち誇り静瑠にそう告げもぎ取った国語辞典を差し出す。
 静瑠は渋々といった感じで耀司から辞典を受け取り
 ――そのまま油断した耀司の脳天を打つ。
 耀司はそのだまし討ちに反応できず、打たれた脳天を押さえうずくまる。
 「ふっふっふっ。油断したわね坊や」
 よくわからないキャラクターでそう言い残し去っていく静瑠。
その姿はとても黒板に書かれた緻密な文字の書き手だとはどうしても思えなかった……。