序章


 私――島津 岬はそいつと遭遇した。

 高校1年の冬。私は家の都合で、住んでいた都心から母の実家のある町に引っ越す事になっ
た。家の都合というのは母の実家の事情、少し前に祖母――つまり母の母が亡くなったため、
一人娘であった母が家業を継ぐことになったのだ。家業というのは母の実家の神社のことで、
何でも出来てからもう五百年近く経つ、『由緒正しき神社』なのだそうだ。幸い父の勤める会
社の支店もその近くにあり、父は異動願いを出すだけで済んだらしい。
 仲の良い友達がいなかった私は、何の感傷も抱かないまま引っ越すことになった。

 引越しの荷物は業者の人に運んでもらって、私たち一家はのんびりと電車に乗っていた。
 電車にのって3時間。私はこれから住むことになる町――上尾長市の事を母から聞いていた。
 上尾市――私が暮らすことになる町。人口十二万人の、大きいとも小さいとも言えない大き
さの町。主だった産業もなく、父の会社と同じ様に各企業の支社転々と立ち並ぶ、都市と都市
を結ぶ中継地点……。
 話が一段落し、母と父との上尾での思い出話――要訳するとのろけ話に話が移っていったの
で私は窓に目を向ける。
 その瞬間。妙な感覚に囚われる。
 電車の座席に座っているはずの私の体が、突如何も無い所へ放り出されたかのような感覚に
囚われた。少ししてわれに返った私が、反対側に座った両親を見ると、二人は相変わらず、電
車内――しかも娘の前だというのに昔ののろけ話を語らっていた。その様子を見るからに、二
人は何も感じなかったようだった。気のせいだったんだと窓の外をみて考えた。しかし、それ
でもまだ、何か支えが足りないような浮遊感が胸の奥で燻っていた。

 いつの間にか、電車は引越し先の町へと入っていた。窓から見える看板がそれを告げている。
 話に聞いたとおりの町が目の前に広がっていた。
 電車はゆっくりと街の中心――私たちが下りる駅に近づいて行く。途中、小高い山の脇を通
過するとき、これから暮らすことになる家――御郁神社が見えると聞き、私は改めて窓の外に
注意を向ける。
 それは遠くからでもはっきりと見えた。小高い山の斜面に作られた石段。その上に佇む大き
なお社。話に聞いていたよりもずっと立派な建物だった。
 石段を登りきった先に見える大きな割殿拝。その奥には遠くから見ても分かるほどの奥行き
を持つ本殿。鳥居から右手には長板が。正面には美しい舞殿。左手には社務所を兼ねた住居が
見えた。そこは俗世とは違う隔離された世界に見えた。
 その世界の美しさは私の気分を高揚させた。それは、神社が視界からなくなっても軽い余韻
を残し、その余韻は、私の視線を窓に固定していた。
 そのとき……。
 視界の端になにかが映る。黒い影のようなそれはなかなか視界から消えなかった。
 それは人だった。全身を黒で覆い隠し、唯一見えるのは、対照的な白髪。
 そいつは私と同じ目線で私を見ていた。私がいるのは高架式の電車の中。それでも、そいつ
は同じ目線で私を見ていた。
 必然的に目が合った。その目は紅く澄んでいた。全てを見透かすような色をしていた。
 そいつと目が合っていた一瞬の時間は、やけに長かった。
 そいつは見えたときと同じく突然視界から消え去る。
 そいつと目が合っていた瞬間は風景も街並も何もかもが見えていなかった。

 ただ、唯一つ――不意に微笑んだそいつの瞳だけが目に焼き付いて離れなかった……。